人は誰にも、自信を育て、新しい自分の力の発見が出来るよう育ちの環境が必要です。
特に、知的障害と言われる人たちには、まず最初に暮らしの基本の基本を無理なく学べる環境を用意することが必要です。
なぜなら、知的障害の人たちの共通の課題は、覚えるのに時間がかかる、それが故に自信に育つのに時間がかかる、確たる自信、確信がないままに生活を展開しなければならない状況に置かれがちになるからです。
覚えにくいから毎日のこと、一つ一つのことを大切に育て上げる、自信につながるよう繰り返し体験する、覚えやすい環境を用意するなどの配慮が必要です。優しさだけでなく、時には印象が強く残る方法を取り入れることも必要と考えます。
丁度、外国語を覚えるのに苦労した自分の姿を思い出すと良いかもしれません。声を出して読んだり、書いたり単語カードにしていつも手元に置いて繰り返しくりかえし、単語を覚えてきました。テストも受け、実際に外国の人と会話が出来たときは、最高に喜びを感じて(自信が生まれ、意欲が駆り立てられる)、さらにチャレンジする勇気を持った。そんなプロセスがあったと思います。
日常のことを、こうして一生懸命学んでいる人たちなのです。自信を持って使える単語(言葉も行動も日常のことも)がまだ少ないのです。
もし英語を学習中に途中で挫折し、英語が苦手という人がいるならば、その方の方が知的障害の人の気持ちがよく分かるでしょう。
そうです、皆さんが何気なく覚えてしまった日常のことを、知的障害を持つ人は、覚えるのに毎日苦労し、毎日が覚え直しの連続の状況にいるのです。これが知的障害者共通の努力の姿なのです。その努力しえたものは、しっかり使えるのです。ゆっくりだけれど学び続け、出来るようになっているのです。知恵遅れどころか、残った脳をフルに使っている知恵働かせの人、努力の人なのです。
覚えるように応援をするどころか、ともすると「下手。遅い。何をしているか。昨日出来たではないか。だめだ」 そんな言葉や心で接して貰っては、自信を持て、勇気をだせというのがムリな話しです。
ご自身でもそんな経験はありせんか。
覚えていないのにそれでも外国の人と話さねばならない。そんな時、避けて通るか、不安状況が高まるか、人に依存し他人の脳味噌で考えて貰う。−そんな状況に誰も陥ります。もちろん、単語を投げつけて、ジェスチャーをして、具体的なものを見せて、絵を示して、様々な努力をしてなんとか通じ合っていくものですが、それすら無いとお互い伝えきれないストレスがたまっていきます。日本語を共通としていても、ハンディを持っていると実はそんな毎日なのではないでしょうか。
情つまり感情・感性は、自分の安心や安全を守るために、その分とぎすまされています。よく働くのです。生命維持の生物学的な反応で自然と磨きをかけます。強く言えば強く応えることに磨きをかけ、優しく見守れば優しく応えてきます。
意、意欲は育っていき易い力です。基本的なフツウの暮らしの中に、意欲や自信を育て、勇気を揺さぶる材料はいっぱいあります。
フツウの暮らしのことは、皆さんからみれば当たり前のことですが、頭の中のけがにもめげず、一生懸命努力してやった結果なのです。結果をほめるのはどうもという人でも、努力へは敬意を表して、「頑張ったね。」「すごい」「すばらしい」「偉い」「さすが!」「次はここへ行こう」と気持ち込めて伝えて欲しいものです。こういう働きかけがないと努力してもムダと安易な道を選びます。みんな同じですよね。
意欲が育ったとき、知のハンディやコンプレックスをはね飛ばして、社会に生きていく力・勇気を自ら育て始めるのです。ここが大切なポイントです。自ら学ぼうとする、勇気を持ってチャレンジ心が出たときは、学んで欲しいことが吸い込まれる様になってきます。そうしたときに初めて、苦手とする知の事への努力も始めるのです。
このような雰囲気・環境を、かかわる人や社会全体が用意すると、問題行動と言われるようなことを出さずに、その人の力精一杯を出して暮らす人になるのです。
ところが現実は、苦手な知へ無理強いしたり、伸びない人とあきらめをだだよわせたりして、ストレスがたまるような環境についしてしまいがちです。
欲しい物(状況)を自分のアクションで手に入れる。こうした環境を作り、勇気をそっとサポートするのが、私たち、かかわっている者やボランティア、親兄弟かもしれません。
いやそれは、かかわる人はもちろん社会全体のしごとです。
本当は社会で暮らしたいと願っている気持ちに応えられるよう、こうした本当に基本的なことを大事に、接遇支援計画を施設の暮らしを使いながら組み立てようと考えています。
社会の中に育っていく人になる。いつの日か施設ではなく、グループホームやアパート、家族が希望すれば家族と、そうした地域生活が出来る日や時代が来ると信じて、それに備えた自助努力と社会参加の準備をする。それが利用者と職員スタッフとの共同作業と考えます。
つい最近58 歳の女性が生活寮寮母さんの助手として、生活寮に移りました。毎日楽しくて仕方がない。その言葉と笑顔が私たちの支えです。
支援はこうした活動をすることであって、決して施設の中で快適に暮らし続ければよいと考えるような狭い、オトナの子守のようなことをすることではない、と日の出太陽の家は考え、試行錯誤ながら実践を続けています。
最近知的障害の人権について論じられる事が多くなってきました。大変結構なことです。しかし、福祉の対象として、施設で生涯暮らせるようにサービスしているかと偏った評価を行政が行わせたり、人は社会の存在であるという基本的な哲学を無視した、施設の中で好きに暮らせる様に「特別な人」として捉えた間違った人権の考え方が一部はやってきています。社会参加をさせる努力より、施設で特別な存在として躾もなく、毎日が日曜日の施設人としていった方が楽でしょう。しかし、税金を使って、持てる力を培わず、社会から遠い存在としていながら、市民に理解せよと迫っても、やがて市民から拒まれ、折角市民権を得始めた、知的障害の人は再び施設へ山の中へ遠くの地へと押しやられるのではないかと心配しています。